なぜ農林水産業だけ2031年施行なのか

更新日:3 日前
昨日は、2027年4月施行の労災保険法改正について、遺族補償年金、時効、特別加入団体、不服申立てなど、具体的な改正内容を整理しました。
今回は少し角度を変えて、改正全体の方向性と、その中でなぜ「小規模な個人経営の農林水産業」だけ施行が2031年4月と遅いのかを見ていきます。
今回の改正は、何を目指しているのか
厚生労働省は今回の改正について、「就業構造の変化や働き方の多様化等を踏まえ、労働災害に対する幅広いセーフティネットを整備するため」と説明しています。
昨日整理した改正項目を、この趣旨に沿って見てみます。
遺族補償年金 → 男女で異なっていた受給要件を見直す
一部の労災給付の請求時効 → 業務との関係を判断しにくい疾病の請求期間を延ばす
農林水産業の暫定任意適用 → 小規模な個人経営に残っていた適用上の例外をなくす
特別加入団体 → フリーランス等を受け入れる団体の要件・監督を強化する
不服申立て → 給付や支援を受けられなかった場合の救済手続を整える
個別には別々の改正ですが、共通しているのは、これまで制度の境界で保護が弱くなっていた部分を見直すという方向です。
遺族補償年金では男女間の受給要件の違いを見直し、疾病によっては請求までの期間を延ばします。
フリーランス等が加入する特別加入制度については、その受け皿となる団体の適正な運営を確保し、不服申立ての仕組みも整えます。
そして、労災保険の適用から一部が除かれていた小規模な個人経営の農林水産業にも、保護を広げていきます。
ただ、その中で農林水産業の暫定任意適用の廃止だけは、施行が2031年4月と約4年遅れます。
なぜ、この部分だけ長い準備期間が必要なのでしょうか。
小規模な農林水産業に残っていた例外をなくす
労災保険は、労働者を使用する事業に原則として適用される制度です。
しかし、農林水産業の小規模な個人経営の一部には、長年にわたり「暫定任意適用」という例外が残されてきました。
今回の改正では、この暫定任意適用を廃止し、現在は任意適用となっている事業についても、労働者を使用する場合には労災保険の適用事業へ移していきます。
2025年の「労災保険制度の在り方に関する研究会」でも、強制適用を目指す方向で意見は一致していました。
一方、適用する事業をどう把握するのか、保険料をどう徴収するのか、零細な事業主の事務負担をどう軽減するのかといった課題も指摘されていました。
問題は、制度を変えた後に、どう現場で動かすかです。
農林水産業では、働き方そのものが一様ではない
農林水産業、とりわけ小規模な個人経営では、一般的な企業とは異なる働き方が混在しています。
家族が日常的に仕事を手伝うこともあれば、収穫期だけアルバイトを雇うこともあります。
近所の農家同士で、「今日はそっちを手伝うから、次はうちを手伝って」と助け合うこともあります。
同じ畑で、同じように作業をしていても、その人がどのような立場で働いているのかは一様ではありません。
例えば、賃金を受け取って雇われている人もいれば、家族として手伝っている人、近隣農家との助け合いで作業に参加している人もいます。
農作業をしているという事実だけで、すべての人を同じように扱うことはできません。
労災保険では、基本的に労働者に該当するかどうかが適用を考えるうえで重要になります。
そのため、同じように畑で作業していても、「雇われて賃金を受け取る労働者」なのか、「家族や近隣農家として手伝っている人」なのかを一律には判断できません。
もちろん、家族だから必ず労働者に当たらない、現金で賃金を受け取っていなければ労働者ではない、という単純な話でもありません。
実際の指揮命令関係や働き方、報酬の性質などを踏まえて判断する必要があります。
だからこそ、強制適用にするには、まず誰を労災保険でいう「労働者」として扱うのかを、現場で判断できるようにする必要があります。
法律上の適用範囲を広げても、現場で誰が対象なのか分からなければ、適切な加入手続につながりません。
新たに対象となるのは約22万経営体
もう一つ大きいのが、対象となる事業者の数です。
2026年5月29日の衆議院厚生労働委員会では、今回の改正によって新たに労災保険の適用対象となる小規模な農林水産業の経営体は、約22万と推計されています。
約22万という数字だけでも相当な規模ですが、重要なのは、その多くが小規模な個人経営であるという点です。
一般的な企業のように、労務担当者や総務担当者を置いているとは限りません。
これまで家族を中心に経営し、必要な時期だけ人を雇ってきた事業者もあります。
そうした事業者に労災保険が強制適用となれば、保険料を支払うだけでは済みません。
保険関係の成立手続、賃金総額の把握、年度更新、保険料の申告・納付などの事務も発生します。
労働者の雇入れ状況や賃金を把握し、必要な記録を管理することも求められます。
収穫期などの繁忙期には、本来の仕事だけでも忙しい事業者が少なくありません。
制度を理解し、対象者を判断し、必要な手続を継続して行う。そのための事務負担をどう支えるのかも、大きな課題です。
約22万経営体を新たに適用対象とする以上、制度の周知だけでなく、実際に加入手続を進められる体制が必要になります。
2031年までに何を準備するのか
政府は、施行までの間に、現在の制度でも可能な任意加入を促進していく方針です。
2026年5月29日の衆議院厚生労働委員会では、対象となる約22万経営体が施行時に一斉に加入することによる混乱を避けるため、段階的に任意加入を広げていく考え方が示されました。
あわせて、事業主の事務負担を軽減するため、次のような取組を進める方針です。
施行前からの任意加入の促進
労働保険事務組合の設立や受託範囲の拡大
社会保険労務士の活用
労働局・労働基準監督署などによる相談体制の整備
農林水産省や農林水産業の関係団体との連携
対象事業者の把握と、制度・加入手続の周知
労働保険事務組合の受託範囲を広げれば、これまで自分で手続をしてこなかった事業者でも、事務を委託できる可能性があります。
社会保険労務士の活用や相談体制の整備も、労働保険の手続に慣れていない小規模事業者を支えるための手段です。
ただし、事務を代行する仕組みを用意するだけでは十分ではありません。
そもそも、どのような事業が新たに適用対象になるのか。家族の手伝いや短期雇用、近隣農家との共同作業をどう扱うのか。
現場の働き方に即して、労働者性を判断できるようにすることも必要です。
つまり、2031年までの期間は、単に施行を先送りするための時間ではありません。
対象事業者を把握し、加入を進め、事務を支える受け皿を整え、労働者性の判断を現場に落とし込むための移行期間です。
なぜ約4年の差があるのか
今回の改正の多くは、2027年4月から施行されます。
一方、小規模な個人経営の農林水産業に残る暫定任意適用の廃止については、2031年4月1日を施行日とする政令案が示されています。
これほど長い期間を設けることについては、労働者保護の観点から、もっと早く適用すべきではないかという考え方もあります。
実際、農林水産業では農業機械による事故、転落、熱中症など、重大な労働災害も発生しています。
労災保険の適用を広げる必要性は、研究会や国会審議でも示されてきました。
一方で、約22万の小規模な経営体を新たに対象とする以上、事業者の把握や加入手続の支援、保険事務を担う体制の整備を進めなければなりません。
適用対象となる人を現場で判断できることも必要です。
法律を施行しても、必要な手続が行われなければ、制度による保護を十分に行き渡らせることはできません。
論点は、「保護するか、しないか」ではなく、「どれだけ早く保護を広げるか」と「制度を実際に動かせる体制をどこまで準備するか」のバランスです。
早く保護を広げることも重要です。
しかし、そのためには、法律上の適用を拡大するだけでなく、小規模な経営体が無理なく制度に移行できるよう、実務上の支援を整える必要があります。
まとめ
今回の労災保険法改正は、労災保険のセーフティネットを、現在の働き方に合わせて広げ直す改正です。
遺族補償年金、請求時効、特別加入団体、不服申立て、そして農林水産業の暫定任意適用。
それぞれ内容は異なりますが、これまで制度の境界で保護が弱くなっていた部分を見直すという方向でつながっています。
農林水産業の2031年施行は、その方針から外れた例外ではありません。
小規模な個人経営の農林水産業では、家族の手伝い、短期雇用、近隣農家同士の助け合いなど、さまざまな働き方が混在しています。
また、新たに対象となる約22万経営体の多くは、労務管理や保険事務を専門に扱う担当者を置いているわけではありません。
労働者性の判断、対象事業者の把握、加入手続、保険料の申告・納付、それらを支える相談・事務体制の整備が必要になります。
50年以上残ってきた適用上の例外をなくすために、実施時期だけを遅らせ、現場で制度を動かせるところまで準備する期間が置かれた形です。
保護の範囲を広げるだけでなく、実際に必要な人へ保護が届く制度にすること。
2031年までの移行期間には、その役割があります。




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